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南方熊楠と縁起の世界〜すべてが相互依存し、同時に現起する
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エコロジーや生態系を切り口にこれからの時代の人間観を探る領域横断型サロンEcological Memesの第五弾が9月1日(日)高野山真言宗高福院にて行われた。

今回のテーマは「東洋思想~因果から縁起へ~」
高野山真言宗高福院 副住職を務められる川島俊之(かわしま としゆき)氏をゲストにお迎えした。高福院は、目黒の駅から徒歩数分の大通りを脇に入ったところにあるお寺。敷地に入るやいなや、ふっと都会のざわつきが静まっていくように感じられたのが印象的だった。

エコロジー、南方熊楠、そして縁起

まずは、Ecological Memes発起人の小林から今回のテーマと企画背景が共有される。

エコロジカルミームでは、個-群れ・集団-地球環境をバラバラにみるのではなく、それらの相互作用やつながり合っているという世界観のもとで、これからの人間観やビジネスの在り方を探索しているが、それらはフェリックス・ガタリという哲学者が提唱した「三つのエコロジー(精神のエコロジー、社会のエコロジー、自然のエコロジー)」 がベースになっているという。

そのつながり合いに深く着目した思想家として、小林が着目しているのが明治時代の博物学者で粘菌学者でもある南方熊楠だ。

意識が無意識から切り離され、知性が感性から切り離され、
因果性が偶然性から切り離されて、人間が人間だけの世界に閉じこもることで、
精神のエコロジーの危機が進行していく(中沢新一/熊楠の星の時間)

明治の終わり頃、神社合祀(複数の神社が一つに合祀されること)に反対していた南方熊楠は、神社林が伐採されることで自然風景と貴重な生物種の生存が脅かされる「自然のエコロジー」への危機感にとどまらず、それと連動して、人の集団として活動・ネットワークを支える「社会のエコロジー」や、個の心の豊かさ・繁栄の基盤となる「個人のエコロジー」における危機が進行していくことに警鐘を鳴らしていていたのだという。

エコロジーというと自然環境のみが想起されることが多いが、これらのエコロジーは密接に関わり合っていて、一つが豊かになればそれが連動して他の存在をも豊かにする。そうした相互依存(interdependence)のつながり合いをエコロジーの本質と捉え、これからの時代の個人のあり方や群れ方、社会実装の仕方をリフレームしていくというのがエコロジカルミームの着想の原点なのだという。

今回のテーマでもある“縁起”という仏教思想もそうだが、こうした相互に依り合う世界観(相依相待)を古来から深めてきたのが東洋的な哲学(レンマ)であり、だからこそ、川島氏をゲストにお招きした今回を企画したそうだ。南方熊楠も華厳経や中論から多くの影響を受けており、エコロジーや自然との共生を考えていく上でも重要な思想になりそうである。

生命の全体性を内に取り込む
高野山の月輪観(がちりんかん)瞑想

参加者同士で自己紹介があった後、川島氏とのセッションがスタート。仏教の世界では、座禅や瞑想といった「実践」と概念的な学習を経て得られる「理論」があるが、今回もその両輪を疑似体験させていただけるセッションであった。まずは、瞑想の実践ワークから。

瞑想には調身・調息・調心と呼ばれる3つのステップがある。調という字は「しらべる」だが、同時に「ととのえる」という意味でもある。身体、呼吸、そして心を順に観察し、状況を感じ取り、ととのえていくという行為だ。

「湧いてきた雑念に気付いたら捨てて、意識を息に集中させた状態に回帰すること」

「ゆっくりを息を吐くことから始めることで、吐く→吸うという自然な流れに身を委ねること」

「慣れてきたら吐く息に白や灰色など淡白な色をつけ、ゆっくりと息の届く距離を伸ばしてみること」

など川島さんのご指導をいただきながら、順にステップを辿っていく。

そして最後の心が調うステップでは、「月輪観(がちりんかん)」という瞑想手法をご指導いただいた。瞑想の手法は流派によって異なるが、真言宗で行われている観法なのだという。

まず、バレーボールほどの月が自分の身体の前に浮かんでいる様子を想像する。その月がゆっくりと胸の中に入っていき、暖かさが身体の内側にやさしく広がっていく感覚を味わう。その後、深い呼吸とともにその月を自分の身体をこえて少しずつ大きくしていき、これ以上大きくならないところまできたら再び小さくしていく、というものだ。

体験後、参加者からも多様な気づきが共有された。中には「自分という境界線が溶けていく感じがした」といった共有もあったが、生命の全体性を象徴するという月を内に取り込み、自己をこえて広げていくことで全体と溶け合っていく(広観)と同時に、大きくした月を小さくすることで大きな生命の現われとして単体の自分が存在することを感じる(斂観)という、非常に味わい深い体験であった。

すべてが相互依存し、同時に現起する「縁起」の世界

瞑想という「実践」が終わると、次は「理論」だ。東洋思想の世界にはどのような考え方があり、それが何に役立つのか。目まぐるしく移り変わる社会の中で一生懸命生きる私たちの世界観の背骨になるような、行動の指針になるような概念的なヒントを与えてくれるのだろうか。

まず焦点となったのは「縁起」、そしてその中核となる「無自性」という概念だ。真言密教や日本の禅との関係が深い華厳経では、ある特定のものが個別に存在し、自性(=AがAである本質のようなもの)が独立にあるとするのではなく、私たちはみな網の目の様にそれぞれが関連し合っていて、その関係性の中で常にすべてのものが同時に現起するという「無自性」の考え方をしている。そういった複雑に入り組んだ相互依存・相依相待のネットワークとして世界の様相を捉えるのが、華厳哲学の「縁起」である。

他方で、「因果」とは事象の原因と結果の関連性を指す概念。異なるものの関連性に関わる概念として「縁起」と相似している様にも感じる。ただ根本的な違いとして、事象を原因と結果で捉える「因果」の考えは、そもそも物事(または人)が単体で存在していることを前提としている。つまり、単体で存在するAとBの間に因果関係・順序性があるかないかを追求する概念であり、近現代哲学論理(ロゴスと呼ばれる)の主流でもあった。

それに対し、「縁起」においては、そもそも存在Aと存在Bはまず単体では存在しえず、相互依存の関係性の中で、常に同時に起こる(現れる)とする。こうした考え方は、因果を否定ではなく包摂しつつも、因果関係だけではない偶然性を含めて、直観的・瞬間的に世界が現起すると捉える「レンマ的哲学論理」と呼ばれる。

仏教や武道の無心・無我とは、都度の瞬間への集中

だが、そもそもすべての物事が同時に瞬間瞬間で立ち現われるというのはどういうことなのだろうか?

ここで私たちは、本企画の参考図書でもあった「熊楠の星の時間」を紐解きながら、改めてロゴスとレンマという、ギリシャ哲学に端を発する二つの論理哲学の世界に踏み込むことになる。

ロゴスは語源的には「目の前に並べる」「集合させる」「言葉で言う」と言った意味を持つ。世界に現象する事物を集め、並べ、整理することが「言葉で言う」と同じ意味を持つのだ。これは、人間の言語がどれも時間軸に沿って単語を並べることによって体験を秩序立てる「線形性」を本質としているからである。

これに対してレンマは、「手でつかむ」「とらえる」「把握する」などという語源から生まれた概念で、物事を抽象的に理解するのではなく、具体的に直観的に理解することを意味している。

ここで重要な点は、レンマ的哲学は、ロゴス的・言語的な世界の把握が本質とした線型性・時間性から離れた、刹那的な世界の把握の仕方であるということだ。

南方熊楠の思想の核とも言える南方曼荼羅と呼ばれる体系があるが、それを導き出すことを支えた土宜法龍との往復書簡の中で、熊楠は下記のように語っている。

大日に取りては現在あるのみ。過去、未来一切なし。
人間の見様と全く反す。空間また然り。
故に、今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みあるが)、
縁が分からぬ。この縁を研究するがわれわれの任なり。
(土宜法龍宛書簡、明治36年8月8日)

つまり、レンマ的論理に基づく「縁起」の次元では、過去・現在・未来と続く時間の実在性が否定され、相互依存・相依相待のネットワークとして網目状につながりあった世界全体がその都度ごとに現れては滅することを繰り返す(刹那滅という)と理解されるのだ。

川島氏は、ここで「直観の経営(野中郁次郎・山口 一郎)」から、日本の伝統歌曲である「さくらさくら(下記スライドのソ・ソ・ラは旋律を示す)」を例にあげて説明を加える。

ロゴスの次元では、「ソ」「ソ」「ラ」を抽象化し、時間軸に並べて理解しようとするのに対し、レンマの次元では、その都度の現在(瞬間)を直観的に把握しようとする。つまり、一番右側の「その都度の現在」においては、濃い「ラ」と、薄まりつつある「ソ」「ソ」が、同時に現起し、交差している瞬間が立ち現われていると理解する、ということだ。

仏教や武道の中でも無心・無我というのは、そうした都度の現在(瞬間)への集中に他ならないのだという。つまり、このように刹那的に世界を理解する次元に立てば、今この瞬間「しか」存在しえない。日本の禅を起源とし、逆輸入的になってしまっているマインドフルネスの広がりとともに「今この瞬間に集中する」という言葉をよく耳にするが、その本質的な前提はこのような世界の理解の仕方にあるのかもしれない。

自らと自ずからーロゴスとレンマを自覚的に反復する

川島氏は、ロゴスとレンマの二つののどちらが良いかといった問題ではなく、両方を意識した生き方が大事なのだとし、そうした世界の二重性を、精神病理学者の木村敏先生によるRealityとActualityという二つの概念を通じて説明した。Realityの方は、個々が独立したバラバラな状態で存在していることで、この時空内で現実を理解するために私たちが使うツールが言語や論理だ。これはロゴス的論理の領域で、経験Aから得た情報を言語化し、論理によって時間軸に沿って並べることだ。

他方で、Actualityは存在同士が曖昧につながりあっている流動的な世界である。ここでは、私たちは身体感覚に基づき直観的に世界を知覚する。そこは、人間の深層部に潜む共通感覚や相互的なつながりの世界なのだという。ここはレンマ的論理の領域で、時間という概念以前に、その瞬間においてすべての物事が同時に起こる。

実際に、かつては投資家として活動していた経験がある川島氏は、当時、世の中の現象を何でも数字をもって理解できると思っていた。これは典型的なRealityだけでの生き方とも言える。この様に偏った日々の中で、世界が灰色にみえた時、その違和感に気がついたのだという。

もちろん言語・ロゴス的論理を用いた現実の解釈は重要だ。だが、そこでの自分の言語体系は特異なものであることに気づき、それらを自(みずか)ら手放し、身体や五感を用いた知覚のための余白をつくる。その結果、自(おのず)と感じられたことが、現実世界で自分が創り出したいものへのヒントとなってくれるのではないだろうか。川島氏のお話には、そんなメッセージが込められているように感じた。

世界は自分であり、自分は世界である

さらに、議論は「空」という概念へと進む。これは仏教がインドから中国に渡った際に変化した概念でもあるが、私たちが生きるこの世界には、そもそもの縁起的ネットワークを生み出す根本的な力があり、それを「空(くう)」と呼んでいるのではないかという。それは瞬間瞬間で世界を生み出しているパワーであり、膨張というも意味も持つ。

川島氏が一つの例を挙げた。それは、川島氏が初めて国際電話で他国の人と通話をしたときのことである。それまではなんとなく世界の「向こう側」で生活を営んでいるのだろうと思っていた人たちが、全く同じ時間に、同じ世界を経験していることに直接的に気付かされた瞬間だった。

その人たちはどうもみんな同じ世界で生きている感覚がする。その時、人々や物事は物理的に分断されているわけではないのだと気がついたのだと言う。つまり、みなお互いにつながっており、世界そのものが共有されていると気づいたのだ。

「空」によって世界が現れているが、それはみんなで分割して所有しているわけではない。ある意味、世界はそこに生きる自分そのものであり、また、自分は世界そのものである。ひとりひとりに実体はなく、個々がそれぞれ移ろいゆく中で全体を形成し、また個々の中に世界のすべてが現れる。それが仏教における無我なのだ。

縁起的世界における自分という存在の二重性とは

その後、参加者との対話の中で「瞑想、縁起そして無我を考える上で、自我と他我をどのように考えると良いのか」という問いかけがなされた。重要な指摘だとした上で、川島氏は次のように説明する。

瞑想の目指すところは「無我」や「主客未分」と呼ばれるが、すると、無我の境地では誰が瞑想しているのか?という疑問が生まれる。自我というのは自分が見た自分であり、それに対して他我は他人が見た自分のこと。つまり、自分という存在に二重性があるということでもある。

月輪観瞑想では、全体へと溶け合っていく(広観)と同時に、単体として独立した自己の存在を感じる(斂観)を繰り返す疑似体験をしたが、縁起的世界では、個々の存在は、全体の大きなシステムの中で、常に、互いに、同時的に現れている。これは言い換えれば、つながり合う全体に溶け合っており、同時に、自分という単体の個として独立もしている。自我と他我というのは、そうした二重性を持つ自分という存在の見方をサポートするものなのではないかという。

先に議論したような、ロゴス的知性を用いて、独立した存在として自己の個性や唯一性を理解しようとすること。そして同時に、レンマ的知性を用いて大きなシステムの中に相互依存的につながり合った存在としての自分に気付くこと。

どちらかに偏るのではなく、これらの一見相反する論理を抱き、往来しながら、生きていくことが重要なのではないかと川島氏は締めくくった。

編集後記:自動操縦モードを止めて、内なるエコロジーに気づくということ

川島さんや参加者との示唆溢れる対話の時間を過ごしながら思い出した言葉がある。

“If you are a poet, you will see clearly that there is a cloud floating in this sheet of paper.”(あなたが詩人であるなら、この一枚の紙の中に雲が浮かんでいるのを見るでしょう)

ティク・ナット・ハンというベトナム出身の禅僧の言葉だ。

物事の因果関係を分解し現象を理解しようとすることは大切なアプローチだ。近代科学に代表されるようなロゴス的論理によって、今の時代を生きる我々の文明社会が成り立ち、多くの人々がその恩恵を享受していることは間違いないだろう。

だが、事象を明確に区別する要素還元的なアプローチのみで、この複雑な世界を理解しようとすること自体の限界を多くの人が感じ始めているのもまた事実なのではないだろうか。華厳哲学における縁起の概念は、そうした区別によって忘れられてしまった、相互依存の感覚やみえないつながりに自覚的になり、取り戻すヒントをくれるのではないかと思う。

だからきっと、「あなたが詩人であるなら」なのだろう。そのつながりを決して頭で、言葉で理解しなさいということでなく、身体感覚や感性、想像力を持ってそのつながり合いを受け取れる自分であれということなのだ。

そういえば、Ecological Memes第一弾「生態系とポストヒューマンセンタードデザイン」の稲村氏の話の中にも、ニュージランド・マオリ族の「I am the River, The River is me(私は川であり、川は私です」という考え方・生き方が出てきた。

もしかすると、これは私たちの誰もがすでに持っている感覚なのかもしれない。瞑想というのは、ロゴス偏重になった自動操縦モードを止めて、実はすでに内に広がっている豊かなつながり、精神のエコロジーに気づかせてくれるための実践の智慧なのではないだろうか。

TEXT by SHUHEI TASHIRO
EDIT by YASUHIRO KOBAYASHI

-Graphic Recording by MOMOKO MATSUURA/BIOTOPE-

Ecological Memes Forum2019 ~”あいだ”の回復~ 開催のお知らせ

エコロジカルミームでは、12/22(日)北鎌倉・建長寺にてEcological Memes Forum2019 フォーラムを開催いたします。京都ソーシャルイノベーション研究所所長の大室教授やECOSYX Labなど知を育む生態系づくりをされている多摩大大学院・紺野登教授をはじめ、第一線を切り拓き実践する様々なゲストの方々をお迎えし、エコロジーや東洋思想、イノベーション、生態系、自己変容などをつなぎ直す探索をしていきます。また、生態系を回復する協生農法に関するセッションや植物の蒸留体験、”あいだ”と遊びの関係性を探るワークショップ、山を歩き感じるセッションなどユニークな体験セッションも多数。みなさまのご参加をお待ちしております。

▼イベントの詳細・お申込ははこちらから▼
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Published inEcological MemesEcology