Skip to content

気候変動に対して、僕らが考えるべきこと:ベルリン発の檄文より

この記事は、BIOTOPE TIDE編集部が連携しているベルリン在住のメディアBerliner Gazette主宰のKystian Woznickiが、今年の10月中旬にベルリンにて開催する”MORE WORLD“カンファレンスの檄文として作られた記事を、邦訳し、転載したものです。

欧州で広がる気候変動の動きに対して、デジタル化とクラウドの温暖化、そして移民という3つの社会課題をお互いに繋がったテーマとして設定し、ビジネス、アート、デザイン、サステイナビリティなどの分野を越えた協働での解決への動きをかけていこう!という連帯の動きへの投げかけをする檄文です。Design for Sustainabilityというのは究極的にはこういう連帯をどう生み出すかというテーマになっていくのかもしれません。

この檄文は、欧州ならではの視点で、私たちが今生きている世界で取り組むべき課題の捉え方の参考になります。

BIOTOPE TIDEでは、佐宗が10月のカンファレンスに参加し、その生の議論をレポートする予定ですのでお楽しみに。

——————————————————————————————————————

Berliner Gazette主宰 krystian Woznicki

この地球という惑星が抱える課題に対処するための共同の取り組みであるBerliner Gazette20周年記念イベントに是非ご参加ください!

#climate change #migration #digitalization

気候変動、移住、そしてデジタル化:これらはグローバリゼーションがもたらした直近のフェーズにおける最大の課題です。私たちはこれらの問題にどのように立ち向かえるでしょうか? この20年のあいだ、私たちBerliner Gazetteは「MORE WORLD」をモットーとして、この地球という惑星の課題に立ち向かうための協働の実践に注力してきました。このテキストでは、Berliner Gazetteの創設者であり編集者のKrystian Woznickiがプロジェクトの理念、そして、読者のみなさんがこのプロジェクトにどのように貢献できうるかをご説明したいと思います。

「私たちはいついかなるときも、どんな場所においても、いかなる文脈においても、世界が私たちに何を望んでいるのか、さらには私たち自身が何を望んでいるのかを、世界の資本によってではなく世界の豊饒さによって問い直さねばなりません(Jean-Luc Nancy

 グローバリゼーションが持つ複雑性から逃げ出したいという兆候は世界中のあらゆる場所に偏在して現れ出てきています。特に「現実逃避的」グローバリゼーションとでも呼べるような、弱体化して危機に陥った権威主義的な民主主義はますます一般化してきており、同時に、自給自足のカプセル化されたシェルターとしての国家は空想の避難所としてすっかり様式化されてしまいました。世界中の公共の側面における国家主義者たちの右翼的ポピュリズムの台頭は、この危険な現実逃避をさらに悪化させてしまうでしょう。こうした事態の悪化は極めて明らかですが、それによってもたらされることはあまり知覚できず、だからこそ、私たちは極めて注意深くいなければなりません。ハンナ・アレントが「Weltentfremdung(世界からの疎外)」と呼んだこの現実逃避主義の傾向は、本来豊饒であるはずの世界へのアクセスを貧弱なものにしてしまうでしょう。この問題は私たちすべてにとって、世界へのアクセスが縮小してしまうということであり、その可能性さえも縮小してしまうということです。そのとりわけ強力な影響は、ある特定の人々を世界の周縁に追いやり、不可視の存在にし、非合法化してしまうということです。反面、特権的な人々はますます制限のない法的な地位を手に入れ、高等教育を受け、社会保障の対象となる仕事を獲得し続けていくでしょう。

 こうした事態が進むと、現実逃避主義者のファンタジーは受け入れざるを得ない現実となり、私たちは新しい現実感と世界への新しい眼差しを育むことを余儀なくされます。そこでは、国家がどの程度まで避難所として機能できるのかという疑問が生じますが、この質問をする人は皆、まずグローバリゼーションの複雑さを直視し、なおかつそれを容認し、なおかつそれを脅威と見なさない方法を見つけなければならないでしょう。なぜなら、それは破壊的な結果をもたらす偏執狂的な防衛メカニズムを引き起こしかねないからです。その代わり、私たちはグローバリゼーションの過程でますます顕在化している世界の複雑さを――特権的な人々も家や国を追われた人々も――私たち全員が協力して取り組むべき課題として捉え直す必要があります。MORE WORLDプロジェクトは、これらの課題は国家単独では打開できない問題であり、同時にそれなしでも克服することはできない問題であると提唱します。むしろ、この課題は共同体や国家、そして世界的な機構との連合によって取り組まれるべきものなのです。我々のアプトーチは、まずミクロのレベルから始めることを提案します。つまり、共同体や国家、世界的な機構を多層的に相互作用させるための潜在的有用性を持った共同の実践やツールを模索することです。この目的のために、私たちはグローバリゼーションによってもたらされた、一筋縄ではいかない複合体に焦点を当てます。例えば気候変動、移住、デジタル化といった問題です。Berliner Gazetteはそれらを代表的な課題として取り上げ、相互に関係した惑星の課題として関連付けるつもりです。

 この目標を念頭に置いて、20年目を迎えたBerliner Gazetteでは、ポピュリズムが現在非常い見苦しいやり方で黙殺しようとしている複雑性の捉え方や解決の仕方を探求していきたいと思っています。第一に、国家は国境を越えた移動に対してリーチすることができ、さらに、自らの存続を確保するために常にそれらを生産的なものにしようとするものであるという事実。第二に、私たちの社会は一般的に思われている以上に、常に多様性と異質性を持った豊かなものであるという事実。言い換えれば、私たちは常に「社会」の均質化されたイメージ――今日では右翼的なポピュリズムによって極端化されています――よりも豊饒であるのです。それゆえ私たちは社会という名の世界において、今は抑圧されている豊かさを再び可視化することが重要であると考えます。それは、私たちそれぞれが異なるやり方でありながらも共同体レベルで共に暮らし、共に働くということにほかならず、それこそが、グローバリゼーションという世界形成のプロセスから生じる惑星の課題のための鍛え上げられた道具なのです。

みなさんの貢献を求めています:Berliner Gazetteの20周年記念プロジェクト「MORE WORLD」では、この地球という惑星の課題を解決するための共同ツールを一緒に模索してくださる方をお待ちしています。この目的のために、Berliner Gazetteはインターネット新聞(berlinergazette.de)の中に、世界中からの貢献を受け付けるオープンな特別セクションを作成する予定です。さらに、私たちは一連のイベントを開催します。詳細については、以下のWebサイト=https://more-world.berlinergazette.deを参照してください。もしこのプロジェクトの質問やアイデアについてもっと知りたい場合は、同サイトをさらに読んでいただければと思います。

気候変動、移住、デジタル化

 今日、気候変動はこの地球という惑星が抱える課題のうち最も差し迫ったもののひとつです。それは私たちを取り囲み、包み込み、巻き込む何かに思えますが、文字通り、その全体性を視認したり理解したりするにはあまりにも大き過ぎるものです。しかし気候変動が実体のないほんやりしたものに見えているとしても、それはありとあらゆるところですべての事柄、そしてすべての人々と関係しており、とりわけ移住とデジタル化の問題につながっています。南半球の途上国では家を追われた何百万もの人々が、気候変動と関連災害のためにますます路頭に迷っています。調査研究においても、地球温暖化がすでに武力紛争にどのような影響を与えているかについての初期洞察が提出されています。シリア紛争のときのように、移住や難民の大規模な移動がますます増えているのです。それは気候変動によって引き起こされた戦争の勃発のために、荒廃した家屋や破壊された生活から逃げ出している人々なのです。問題はほかにもまだまだあります。私たちはそうした問題のさらなる絡み合いに対して準備を整えなければなりません。例えば、デジタル化に起因するより複雑で動的な問題の相互依存関係にも注目する必要があるでしょう。

 デジタル化はクラウドインフラストラクチャーの拡張、光ファイバケーブルの敷設、データセンターやサーバーファームなどの建設を含めて、世界規模で現在進行中のプロセスです。このインフラストラクチャーは滅多に議論されることのない地政学的な側面を有していて、国境警備や入国審査、ドローン攻撃の際にその存在が露わになるばかりか地球温暖化にも関連しています。クラウドインフラストラクチャーの地政学は国家の主権を超越しますが、それゆえに、地球温暖化におけるクラウドインフラストラクチャーの影響に対する国家の責任をあやふやにしているようにも見えます。そうこうしている間にも、気温の上昇はクラウドインフラストラクチャーに対するストレスを生み出し、同時に、「クラウドの乱用」の絶え間ない増加はサーバファームなどの高温化による気温の上昇を加速させているのです。この環境としてのインフラの危機の只中においては、市民権や人権が混乱をきたし、交錯しているような政治的空間が立ち現れています。それによって最も影響を受けるのは、移動の自由に対して権利を主張している人々でしょう。移住は「リスクゲーム」になりつつあります。すなわち、「移動性のある労働力=モバイルワーカー」から利益を得ようとおくろむ市場や国家が、この「ゲーム」において最も立場の弱い人々にだけリスクを負わせてしまおうとする事態が台頭しているのです。最も立場の弱い人々とは、移民や亡命希望者、無国籍者などです。

 気候変動を加速し人々の生命を奪う結果となっているクラウドインフラストラクチャーが放つみせかけの「光明」に何らかの価値を持たせる方策を、私たちはどのようにして見付け出すことができるでしょうか? どうすればクラウドインフラストラクチャーを既存の連帯のネットワークによって代替することができるでしょうか? 最後になりますが、どうすればクラウドインフラストラクチャーを知らず知らずのうちに弱体化させ、弱い立場に置かれた移住者たちを支援できるような共同体構造に置き換えることができるでしょうか? 共同体と国家、そして眼前の惑星の課題に対する地球規模の取り組みとの間に相互作用をもたらすには、どのような共同の実践や道具が有用なのでしょうか?

 これらは広範囲にわたる深遠かつ難解な問題です。しかし、何とかして私たちはスタートを切る必要があります。もし私たちがグローバリゼーションの現在の発展の中における複雑さに向き合おうと思ったら、まず、気候変動、移住、デジタル化が共同体や国家、世界規模の組織の相互作用によってしか適切に管理できない相互に連動した地政学的な複合体であることを認識しなければなりません。しかし、それは言うは易く行なうは難しです。結局、これらの問題に目を背ける逃避の方法はいくらでもあり、その過程で、世界へのアクセスは貧困なものになっています。言い換えれば、繰り返しますが、これらの複雑な問題が最初から存在しないかのごとく、最初から世界はそうであったかのごとくに……。この世界へのアクセスの貧困化には、相互に関連したふたつの側面があります。第一に、気候変動のような複雑な問題は隠蔽されています。第二に、移住の過程でも明らかになるような社会の多様性は抑圧されています。すべては明確になり、簡単に管理できるようになる――果たしてそんなにうまくいくでしょうか? それははなはだ疑問です。結局、問題となっている複雑さは社会の多様性によってもたらされているものです。そして、その逆もまた真なりです。つまり、これまで述べてきた複雑極まる諸問題は社会の多様性に潜在する力なくして克服することはできないのです。従って、私たちは自分たち自身への新たなアクセスの方法を模索していくことが必要です。そして、それは、世界への新しいアクセスの方法を模索していくことでもあります。もし、それができないとしたら――逆もまた真なりです。

右翼ポピュリズムの破壊的な虚偽の側面

 今日、私たちはあらゆる解放のための努力に対してポピュリズムが引き起こした損害に注意を払うことを避けることはできません。しかし、私たちはここで立ち止まってはいけないのです。ポピュリズムが掲げる行動計画は、私たちの注意と勢力にさして目を向けないでしょう。結局私たちは、私たち自身ができる行動に注力するほかないのです。とはいえ、ここでまずはポピュリズムを考察してみたいと思います。現今ではポピュリズムの最も支配的な形態は国家主義的な右翼ポピュリズムであり、それはハンガリー、インド、米国、トルコ、日本、ブラジル、そしてドイツなどのさまざまな国々で急速に拡大しています。ポピュリズムが支持者を得るところでは、世界の複雑な問題に対する極めて簡単な解決策が約束されているのが常です。その解決法のための欺瞞に満ちた決まり文句は同質的で権威的な避難所としての国家をでっち上げ、国家が何世紀にもわたり国境を越えたネットワークと交通の流れの拡大のための触媒であったことを不問に付します。そうなると当然、グローバリゼーションにおいて国家が常に決定的な役割を演じてきたこともうやむやになってしまいます。これは言い換えれば、この惑星が抱える問題に対して国家が決定的に寄与したことを隠蔽していることでもあり、また国家という幻影によって、人類史の中で(例えば植民地化の過程で)国家がいくつかの残虐な犯罪に対して責任を負っていることも曖昧になってしまうということです。

 国家がグローバリゼーションのための条件を作り出してきたことを不問に伏すことによって、国家主義的な右翼ポピュリストたちは同時に、彼らが国家の内から隠したいと願っている、複雑性とそれに起因する諸問題をまさに国家が生み出しているという事実を排除してしまいます。この如何ともしがたい矛盾は、今日、国家主義的な右翼的なポピュリストたちによって組織的に抑圧されていると言っていいでしょう。彼らがさらにこうした見当違いのプロパガンダを流布させるにつれて、この抑圧はますます脅迫的な力として世界中に垂れ流されていきます。例えばそれは、社会における「他者」の迫害、「不均質な連携」の排斥、そして究極的には、Brexitの場合におけるような社会の自己破壊として目の当たりにすることができます。その過程で私たちはファシズムへの後退の危機にさらされますし、「ネオファシズム」といった議題の公開討論が激増している事実も思い出されるでしょう。フランクフルト学派によれば、彼らは私たちに次のようなことを考察するきっかけを与えてくれます。それは、ファシズムはある種の勇気の欠如によって突き動かされているということ。ファシストを恐れてファシストに加わるすべての人々の勇気の欠如は、何よりもまず、もつれ合い絡み合う世界の豊饒さを直視するのを恐れるという勇気の欠如でもあるということです。

 現実逃避に立脚するこの傾向の発端は、右翼的なポピュリストたちによるグローバルな相互依存関係の放棄、そこから発生する国際的義務の放棄、すなわち経済的、生態学的、技術的、文化的グローバリゼーションの複雑性の放棄にあります。世界と世界へのアクセスの貧困化が進む中で、現実逃避主義者のこうした放棄は、扇情的な国家主義的右派勢力によって合法化された不合理の形態によって正当化されています。この傾向が特に語っていることは、明らかに頭のおかしい連中の主張はまるで不十分であるということです。究極的には、現実逃避主義者による惑星の相互依存性の放棄は白人至上主義の原ファシスト的思想の復活であり(例えばトランプ、オルバン、ガウラント)、ヨーロッパの啓蒙主義植民地化の中で生まれた合理性の思想の再活性化と手を携えています。この悪しき結びつきは、まさに白人至上主義の再現前であるばかりでなく、さらにはそれを強化さえするものと言えるでしょう。

 このように世界が貧弱になっていくということと、人々が世界から疎外されていくということは、不合理のエクスタシーとして機能する現実逃避主義の帰結であり、もっと言ってしまえば、白人至上主義の看板のもとに成り立つ理屈の過剰なる現れです。この不合理性のエクスタシーと白人至上主義の観念によって活気付けられた理屈、それは今日、公共圏に蓄積された鬱憤として取り憑いています。こうしたプロセスは扇動的な右派勢力である国家主義者たちを活性化させるばかりでなく、最近開催された南ヨーロッパのindignados(怒れる者たち)の事例を用いた公開討論のような、他の情動に突き動かされた社会運動の信頼を失墜させてしまうのです。そのような情動的かつ革命的な政治への不信はさまざまな理由で問題になっています。そのひとつは、国家主義者と情動的かつ革命的な政治は一般の人々にはますます区別のつかないものとして立ち現れ、その結果、情動的かつ革命的な政治は歴史的に正しくかつ真であるような自らの主張を奪われているように見えます。これはまさに逆説的な苦境です。今日、国家主義的な右翼ポピュリズムの台頭は、情動的かつ革命的な政治の広範囲なスペクトルが合法とは認められないような状況を作り出しています。その一方で、国家主義者および極右勢力の「不合理」な行動計画とその実践はむしろ合法的かつ合理的に見えてしまうのです。

 こうした政治情勢の中で公共圏は非常に厳しく抑圧されており、世界の広範囲にわたる貧弱化を媒介しています(それは常に私たちの貧困化でもあります)。そこでは反対意見や敵対勢力に関する公的な議論も、議論に貢献すべきマジョリティの人々に関する公的な議論すらも行われていません。後者には排除された人々、無視された人々、そして違法化されてしまった人々が含まれており、彼らは一般的に他の人々よりも危険にさらされる傾向が強い人々です。

 言うまでもなく、開かれた公共圏――反対意見に対して、そしてとりわけ、議論に貢献すべきマジョリティの人々に対して開かれた――の絶え間のない創造は、常にあらゆる民主主義を活性化するための基盤でした。ヨーロッパにおいても、アメリカにおいても、その他の地域においても、それは依然として有効な原理です。集団的な勇気は基本的な民主主義の約束事を実行するため、さらには私たちの本来あるべき豊かさを生かすために確立される必要があります。従って、私たちはどうすればその勇気がそれ自身を生産的に表明できるかを探求しなければなりません。

世界へのアクセスの遮断を必要としているのは誰でしょうか?

 探求と調査を続ける一方で、「民主主義のための勇気」と「私たちのための勇気」は、しばしば、特権的な人々の自己防衛に限られることを批判的に指摘しておく必要があるでしょう。「社会の中心にいて」「社会の多数派」を構成しているのは、制限のない法的な地位を有し、高等教育システムに容易にアクセスでき、社会保障拠の対象となるような正規の仕事についている人たちです。驚くことではありませんが、彼らの自己防衛は右翼ポピュリズムによって育まれた原ファシスト的傾向と共謀した非常に問題が多いものです。

 例えば特権的な人々は、「国家主義者たちがリベラルな民主主義の達成を脅かしている」のは正当な理由がないわけではないと主張しています。彼らはそうした「達成」から誰が取り残され、誰が排除されているかわざわざ尋ねもしません。代わりに、彼らはリベラルな民主主義の達成から利益を被った人々、そして、自由、安全、影響、地位などの観点から恩恵を受けていないと思われる人々だけを脅威の尺度として捉えています。自分たちの確信に焦点を当てたまま――それは国家主義者たちの抑制の効かない固執を反映しています――特権的な人々は、究極的には、国家主義者的な右翼ポピュリズムによって標準化された目下の支配的な傾向を支持していますし、それは他人のためではなく、なによりも自分のための排他的であてにならない発展と関連する是認です。それはとりわけ深刻な帰結をもたらすでしょう。なぜなら、論説的かつ政治的な世界へのアクセスの貧困化の本当の脅威は、特権的な人々にとってではなく、排除され、無視され、非合法化された本当に弱い立場にある人々にとって重大だからです。彼らの中に無国籍者や有色人種が含まれていることも見逃せません。難民活動家であるJennifer Kamauは、私たちにこうした事実を思い起こさせてくれます。

したがって、私たちが今、異質性と多様性を受け入れた別様の世界=MORE WORLDを要求するならば、私たちは――国家主義的な右翼ポピュリストたちによるプロパガンダによれば――私たちにとって利害関係がないと言われ、無視されるべきと言われ、排除されるべきと言われ、もしくは命を奪われても致し方ないとさえ言われている人々と、彼らのために行動を起こさねばなりません。しかし、私たちはこれを特権的な人々にも要求します。彼らもまた、世界へのより豊かなアクセスを必要としているのです。なぜなら――これこそが問題の核心なのですが――私たち皆が共により豊かな世界へのアクセスを創造し、それを活用した場合に限り、この地球という惑星の課題に建設的に対処できるのからです。

決して怖気付かないということ

 今日、私たちは世界が貧弱になっていくというトレンドを覆すべく挑戦しています。私たちは異質性と多様性を受け入れた別様の世界=MORE WORLDのための素地を作り出さなければならず、それはヘーゲルの「真無限」の意味において、常に「ever-more world」を意味することになるでしょう。言い換えれば、私たちは不当に抑圧されてきた、もしくは、白人優越主義主義や白人男性による合理性のもとで闘われてきた社交的世界の無限の豊饒さを取り戻す状況を作り出さなければならないということです。したがって、私たちは共に考え、共に暮らし、共に働く別様の方法を実現し支援する必要があります。それは究極的には、覇権的言説の陰になりながらも共同体のミクロレベルにおいて日々実践されている別様の情動的な政治です。さらにそのうえ私たちは、共同体のレベルにおいて、自らを政治的な存在として表明する機会すらなくグローバリゼーションの荒波に翻弄され、グローバリゼーションのさまざまな問題に直面している人々を可視化しなければなりません。結局彼らはグローバルな変動の内部で、緊張や軋轢を伴いながらも共に社会を維持するためのネットワークや運動によって自らの地位を高めている存在です。しかも彼らは、その過程で、共同体や国家、もしくは国境を超えたアプローチの相互作用としての複雑性を批判的に分析し、形成し、制御している存在であるのです。これらのすべてのことはまた、共同体の構造を展開したりそれを地球規模の課題に取り組むための国家レベルおよびグローバルな構造に接続するための実践を可視化することも意味しています。

 この取り組みの重要なレファレンスの1つは、Avery F. Gordonの「The Hawthorn Archive. Letters from the Utopian Margins」です。この印象的で万華鏡のようなジャンル越境的な本は、ゴードンが1990年代に始めた、西洋の規範から体系的に排除されてきたユートビアの伝統に関する研究に基礎を置いておいています。ゴードンのこの著書は、異なった形式における生活や労働の実際の体験と架空の体験のアーカイブとして構成されており、膨大な数の「従属知」(フーコー)を目に見えるようにし、現実の世界においても応用可能なものにしています。「The Hawthorn Archive」が再提示しているのは、人々の理想によっていつかどこかで建設されるべき忘れ去られたユートピアの伝統ではなく、いまここにおける、異なった形式での生活や異なった形式の仕事についてのことなのです。そこでは、17世紀のイングランドにおいてコモンズのために(そしてenclosure=囲い込みに対して)戦った人々は、現代のさまざまな運動家にとって参照すべき事例であり、奴隷貿易の廃止やアメリカの奴隷制度のために戦った人々、南半球の途上国における植民地解放のために戦った人々も同様です。

 言うまでもなく、そうした闘争は現代でもまだ起こっています。目撃者としてではなく代弁者としてのスタンスで残された記録は歴史にアクセスすることを容易にするだけでなく、現代における闘争をより広範な文脈の中に位置付けることを可能にしますし、さらには、この時代にそれらをどのように検出すればよいかを理解させてくれます。結局のところ、共同体のレベルにおいて異なる生活をし異なる仕事をするという現代的な実践は、はっきりとした政治的なものとして宣言されたり記録されたものではなく、ユートピア的とは言えないまでも、シンプルに生起しているものなのではないでしょうか? 従ってこれらの宣明されざる行動は、普段私たちが総体的に世界を把握しているとき、特にグローバリゼーションの只中においては見逃されてしまう傾向があります。そしてゴードンが述べているように、共同体的な実践の豊饒さは「ユートピアの周縁」の中に埋葬されたままになってしまいます。

コモンズの問題を再起動するということ

 現在の政治情勢における共同体の潜在的な豊かさを深く探求しようとする時、グローバリゼーションの直近の段階の公式な始点である1990年代を詳しく見ないわけにはいきません。現在と1990年代を比較してみるということは、何が連続性、反復性、相違性を構成するのか問うことになるでしょう。1つ確かなことがあります。それは、今日ではほとんど忘れ去られてしまった当時の社会運動は、私たちがいまやろうとしているように、自分自身を同時にさまざまな局面に置くために、そしてその過程で新しい同盟関係を構築するための闘われてきたということです。例えば、当時の人々は自らの身を二つの矛盾する潮流の中に置かねばなりませんでした――つまりグローバリゼーションへの多幸感(自由な市場経済とリベラルな民主主義の地球規模での勝利)と、グローバリゼーションへの恐怖症(国際的な右派ポピュリズムの台頭、ドイツの亡命者保護施設への人種差別に動機づけられた攻撃を参照)の両方です。

 1990年代の社会運動はグローリゼーションの「不合理な」反応の傾向に対して批判的な距離をとっていたため、分析的な明快さを保持することができました。従ってそれは、右派ポピュリスト思想が焚き付ける「不合理性」に扇動された「偽りの明晰さ」を見事に反証できたのです。こうした意味において、私たちは、歴史的な瞬間の中から発掘されるべき埋蔵された道具箱として、1990年代の批評的な運動に接近することができるでしょう。私たちは彼らがどうやって重要な政治的実践を実現したのか、とりわけ、どうやってコモンズの実践の復活を可能にしたかについて詳しく調べることができました。いま、新自由主義的グローバリゼーションの過程でますます破壊され民営化がされている資源や生活にまつわる地方自治は、enclosure=囲い込みの新しい局面に差し掛かろうとしています。

 コモンズの問題の周辺では、共同体において共に暮らし共に働く方法はローカルなレベルとグローバルなレベルで一度に培われました。当然のことながら、結局のところ、それらはインターネットの初期の時代の動向だったのです。国境を越えた集団的な想像力と協調性を形成するにあたって、それを実現しようとする人々の行動は活動家で学者のAngela Davisが「ハイパー共感」と呼ぶところのもの、つまり、国家の限界を超えた連帯を可能にすることへの共感によって突き動かされました。

 その過程で、南半球の途上国と北半球の先進国、そして西側と東側の同盟関係が形成されました。前者の例としてはサパティスモ(メキシコ革命の指導者エミリアーノ・サパタの思想を支持する武装運動)とは異なる、誰も法に触れていないもの、アフロフューチャリズムのようなもの、後者の例としてはネットアクティビズム、サイバーフェミニズムのようなものがあります。少なからず、自治体、国家、そして世界規模の組織の相互作用は、可能性に満ちた方法でテストすることができました。その特に驚くべき例はサパティスタ民族解放軍でしょう。人々の暮らしを共同体的に組織するために、彼らは地域の自治権を主張し、法の支配を訴え、国際的な連携のネットワークを築き上げました――そして、国家の民間部門や政府の国際機関の略奪的行為への抵抗を展開したのです。

 こうしたことを懐古的に理想化することに抗いながら、私たちはユートピアの周縁の陰からこれらのアプローチを救い出すことができました。それによって、共同体の実践についての従属的知識を可視化し、議論に役立てるべく、今日的な状況に対しての知識の有用性を抽出したのです。1990年代の社会運動はどのように共同体を形成したのでしょうか? もっと一般的に言えば、人々が国家や地球規模の組織と関係した状況をどのように形成したのでしょうか? 気候変動や移住、デジタル化の交点における今日の(惑星的な)課題に対して、私たちにはどのような行動が必要でしょうか? 私たちは――特権的な人々も家を奪われ国を追われた人々も同様に――先人たちの失敗から何を学ぶことができるでしょうか?

このプロジェクトに参加するには:地球という惑星の課題に対する共同の取り組みであるBerliner Gazette20周年記念イベントへの参加方法は、以下のWebサイトを参照してください。https://more-world.berlinergazette.de

「MORE WORLD」プロジェクトの序文であるこのエッセイ執筆のさまざまな段階で、重要なフィードバックやインスピレーションを与えてくれた多くの方々に感謝したいと思います。特にBGチームのメンバー、そしてBGの執筆者と賛同者に感謝します。Tatiana Abarzua、Louise Amoore、Kerry Bystrom、James Bridle、Nancy Chapple、Abiol Lual Deng、Leonie Geiger、Max Haiven、Alexander Karschnia、Florian Kosak、Sven Luttticken、Tomislav Medak、Marta Peirano、Chris Piallat、Nina Pohler、Magdalena Taube、Edward Viesel、Harsha Wailia

Published inBerlin