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[対抗文化の新都より Vol.3-1]
ヨーロッパ、気候変動ストライキにみる自律型市民社会

2019年9月20日、ニューヨークで開かれる国連の温暖化対策サミットを前に、若者が中心になって世界各国で気候変動への対策を求めるデモが行われた。163カ国で400万人以上が参加した#Climatestrike。各報道によると、ニューヨーク 25万人、メルボルン 10万人、ロンドン 10万人の人が参加し、ベルリンでは27万人、ドイツ全体では150万人もの人が参加したという。ちなみに東京は5000人が参加したそうだ。

こうした気候変動に関するストライキは、スウェーデンの16歳の少女グレタ・トゥーンベリさんが始めたFriday For Future(未来のための金曜日)運動からはじまり、瞬く間に世界に広がった。
毎週金曜日に学校を休んで温暖化対策を訴え続けているFriday For Futureの活動はベルリンをはじめヨーロッパの各都市で見ることができる光景となっている。

このFriday For Futureが中心となって世界で行われた気候変動のストライキ。ベルリンでも複数箇所で様々なデモンストレーションが起こったが、一番大きいものはブランデンブルグ門周辺で行われた、Friday For Futureはじめ16のNGOや市民団体、民間企業などが主催となったデモだった。

わたしにとってデモは、政治的な意味として自分の意見を表明する場所というイメージがあるため、よほどの強い意見がない限り、参加することに抵抗があった。
しかし、気候変動に対し、日常から考える機会が増えたことや、世界的に避けることができないトピックの一つになっている状況もあり、この目で、今ベルリンの市民がどんなアクションを起こしているのか見たいと思い、参加することにした。

10万人が集結!ベルリン、気候変動ストライキ

午後12時からブランデンブルグ門あたりでデモが始まるとの情報をたよりに向かってみる。しかし、途中から道が人だかりでなかなか前に進めない。電車も満員で地下鉄の一部区間が止まる事態に。
ベルリンやヨーロッパではデモが日常的に行われているが、これほどまでに大規模なストライキは今まで見たことがない。

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Global Strikeを呼びかけるFacebookイベント
ブランデンブルグ門に向かう途中

ストライキのメイン会場であるブランデンブルグ門周辺には、約8〜10万人が集結。

Friday for Future関連の団体やドイツの環境保護を目的とした非営利団体BUND、ロンドン発の気候変動への政治的対策を訴える市民運動Extinction Rebellionをはじめ、世界各国の環境系のNGOや民間企業、教育機関、科学系のグループなど様々なコミュニティがつどう。
アマゾンの森林火災に関連した南アメリカのコミュニティなども目についた。

学校や企業は、Friday for Futureやデモに参加するために休むことを許可していることもあり、たくさんの若者、特にギムナジウム(5年生から12年生までの中高一貫教育校)の生徒たちと大学生の姿が。その中には、先生たちが引率して、課外授業として参加している姿も見られた。
若者たちに触発され、大人や家族連れ、おじいちゃんやおばあちゃん世代の姿も。
ドイツでのFriday for Futureの浸透率の高さを思い知った。

Friday for Futureのウェブサイトを見ると、ドイツでは300ほどの街で自主的に参加者が集まり草の根的な運動を行なっている。科学者などの専門家(すでに2万8千人が支援署名)、教師、親たちなどのグループも賛同しはじめている。

日本では、デモンストレーション、ストライキと聞くと、政治的な活動や暴動など、ネガティブなイメージが払拭しきれないかもしれないが、ベルリンで行われるデモの多くは平和的なものだ。
社会運動と祭りがミックスされたような雰囲気。
自分の主張をかいた思い思いのプラカードや、コスチュームをまとい、歌やパフォーマンスなどで自由に表現する。

人のエナジーは想像するよりも強い。
今回、10万人が集結し、意思を表示したデモのエネルギーは肌に突き刺さるほど力強かった。

大型のデモがフェスティバル的な市民運動と発展した例として、ベルリンや世界各国で行われるジェンダー・セクシャリティに対する抗議運動「ラブパレード」などが挙げられる。

ラブパレードは、規模の拡大とともに大衆化し、今や一大フェスティバルとなっている。
参加者の意識の差も目立ち、お祭り気分で飲んでるだけの人やファッションやエンターテイメントとしてカジュアルに参加する空気の人もいる。
これに対し、本来の主旨とズレているとの批判的な声も、正直なところ、よく耳にする。

このような現象は、今回の気候変動のストライキでも見受けられた。
規模が大きくなればなるほど、参加動機も環境への意識も異なる人たちが集まり、それに対する賛否両論の声も強くなる。実際、グレタさんらの活動に批判的な人やデモなどのアクションに対するヘイトの声も上がってきている。

多様性を育むプラットフォームとしてのデモ

わたしは、ドイツ、カナダ、メキシコ、中国、インド、フランス、アメリカ、ニュージランド、スウェーデンなど様々な国籍のスタジオメイトや友人たちと一緒にこのストライキに参加した。
ヴィーガンやベジタリアンの人、子供のころからエコロジーな生き方を大事にしている人もいれば、関心はあるけどもそこまで徹底はしないという人まで、じつに様々。

ストライキ中、自国の環境に対する現状、ドイツ国内の環境対策に対する個々の意見、日常の中で個々が注目している環境系のトピックなど、いろんな議論が飛び交った。

議論にあがったトピック例は以下。

[Co2排出量への意識]
  • 近中距離の飛行機移動はやめ、電車に切り替えている
  • 車の移動もなるべく控え、使う場合はライドリングシェアを選ぶ
  • 輸入にかかる飛行機輸送のCo2の排出に反対なので、地産地消の食品を選ぶ
  • オーガニック、地産地消を推奨する信頼できるマーケット情報
[食料廃棄、プラスティックゴミなどへの意識]
  • 食料廃棄問題における各スーパーマーケットの取り組み
  • プラスティックゴミを減らすためにしてる工夫
  • ゼロウェイストを実践している人からのオススメレストランやお店情報
  • 自宅でも使えるコンポスト情報
[環境配慮と政治団体の動き]
  • 最近、AfD(ドイツの極右政党)が環境配慮の観点から、自給自足としてブランデンブルグでVegan系の食品の生産に力をいれているらしい。(AfDは環境対策に対して消極的な政党の一つだったのだが、緑の党の支持率の上昇を受けて環境対策を打ち出しているという文脈から)

デモをきっかけに、これだけの議論が飛び交うことには意義がある。
各国の異なる環境事情、個人の環境に対する価値観の違いに触れることは、関心を深め、多様性を受容する貴重な機会になる。

また、この議論をとおし、日常生活の中で環境を意識したライフスタイルを実践することは、リベラルであるといった価値観が人々の中で浸透し始めていることに気づく。

デモに代わる日本が取り組むアクションとは?

日本の原発問題や食料廃棄やプラスチックごみの問題、自給率の話などについても聞かれたのだが、ある質問が強烈に、わたしの胸に刺ささった。

友人「今日、日本でもデモンストレーションは起こってる?」
わたし「デモはあるけど、日本ではベルリンほどの参加者はいない。合計で数千人程度だと思う。」
友人「日本は、あんまりデモの文化が根付いてないって聞くよね。」
わたし「そうだね。デモ自体がネガティブで危険な印象もあって、日常的にあまり見ない。デモをしても何も変わらない、デモ自体を有効手段と捉えていない人も多いと思う。」
友人「うん。確かにデモ自体が有効手段ではないっていう考え方はわかる。日本にはデモの文化は合わないのかもね。じゃあ、日本にあったやり方で、市民のエナジーが集まって、世の中に発信するような別のものって何があるの?」

この質問は今の日本の本質的な問題を抉ぐるもので、正直、言葉につまってしまった。
この日、ここで起こっている大規模ストライキの市民のエナジーは凄まじかった。
そして、環境について多角的に考える機会は、私に多くの気づきを与えてくれた。
そのエナジーや気づきと同等である、もしくは、もっと賢くてパワーのある日本の事例が浮かんでこないことに、危機感を覚えた。

デモが世界を変える訳ではない

市民運動などのカウンター・デモクラシー(選挙以外の手段での民意の表明)が一過性ではなく、日常的にヨーロッパでは根付いている。

今回の気候変動のように、そうした市民の関心やアクションが、専門家、教育機関、企業、政治団体が社会問題について考えざるを得ない状況を生む例も多い。

ただ、上記の議論から感じたのは、彼らの多くは、デモを世界を変える絶対的な手段として捉えてはいない。デモに対して妄信的でもなく、希望を持っているわけでもない。

デモはあくまでアウトプットの手段の一つ。
注目したいのは、ヨーロッパの市民が日常的に行っている、「社会問題について目を向け、危機感や問題意識をもったら、きちんと意思を表明し、行動にうつす」というサイクル。

大事なのは、この根本的な市民の意識と行動の構造である。

単に妄信的にデモを行うという見解から「やる意味があるのか」といった議論が出てくるのはとても表層的だ。

先にも述べたように、彼らの多くはデモを世界を変える絶対的な手段として捉えてはいない。声をあげることはわたしたちができるシンプルな手段の一つ、他に有効な手段があれば取り入れたいという姿勢もある。

友人の質問は、多様性を理解したうえで、社会問題に対し、「日本はどんな手段をとっているの?」という一つの知見を学ぶポジティブな姿勢のあらわれであった。

これに対し、日本の状況を考えてみよう。

そもそも、国民の意識が社会問題に対して向いているのか。
向いていたとして、社会を変えるために何か表明したいと思うのか。

根本的な思想の部分への疑問が生まれてくる。

もし、日本市民がそのような意識と行動の構造を持っていないのであれば、市民の意識を変えるような取り組みはされているのだろうか。

例えば、企業や教育団体が市民の意識改革に影響を及ぼすタッチポイントを創出しているか。
考えてみても、残念ながら市民意識に根付いている結果を見つけるのは難しい。

日常レベルでの意識やアクションに関しては、ヨーロッパとの温度差を感じざるを得ない。

次の記事では、市民運動などのカウンター・デモクラシーがドイツに根付いている理由などを探りながら、私たちが社会とどう関わっていくのか、どう社会を作っていくべきなのか考えてみたいと思う。

TEXT BY SAKI HIBINO

ベルリン在住のプロジェクト& PRマネージャー、ライター、コーディネーター、デザインリサーチャー。Hasso-Plattner-Institut Design Thinking修了。デザイン・IT業界を経て、LINEにてエクペリエンスデザイナーとして勤務後、2017年に渡独。現在は、企画・ディレクション、プロジェクト&PRマネージメント・執筆・コーディネーターなどとして、アート、デザイン、テクノロジーそしてソーシャルイノベーションなどの領域を横断しながら、国内外の様々なプロジェクトに携わる。愛する分野は、アート・音楽・身体表現などのカルチャー領域。アート&サイエンスを掛け合わせたカルチャープロジェクトや教育、都市デザインプロジェクトに関心あり。プロの手相観としての顔も持つ。

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