Skip to content

[対抗文化の新都より Vol.3-2]
ヨーロッパ、気候変動ストライキにみる自律型市民社会

2019年9月20日、ニューヨークで開かれる国連の温暖化対策サミットを前に、若者が中心になって世界各国で気候変動への対策を求めるデモが行われた。163カ国で400万人以上が参加した#Climatestrike
ベルリンでは27万人、ドイツ全体では150万人が参加したこのストライキ。前回の記事では、10万人が集まったベルリン・ブランデンブルグ門周辺で開かれたストライキの様子のレポートと共に、こうしたデモをはじめとする市民運動などのカウンター・デモクラシー(選挙以外の手段での民意の表明)が持つ意味や日本との意識の違いを考察した。その記事はこちら

この記事では、市民運動などのカウンター・デモクラシーがドイツに根付いている理由などを探ってみた。

抗議文化が根付くヨーロッパ

ヨーロッパでは、デモンストレーションやストライキなどの市民運動は、日常的に行われているイメージが強い。ベルリンでも、難民問題に関するデモ、女性の権利を求めるデモ、LGBTQに関するデモなど、街を歩いているとなんらかのデモに遭遇する機会は多い。
最近でいえば、ジェントリフィケーションの影響で高騰する家賃に対して、市民が家賃の釣り上げの凍結を訴えるデモが起こっている。その結果も影響し、ベルリン市は2014年以前に建てられたアパートの5年間の家賃の凍結を州議会に提出することを検討する構えだ。

家賃釣り上げに対するデモ

ヨーロッパにおけるデモの歴史で真っ先に思い浮かぶのは、18世紀フランスで「自由・平等・友愛」というスローガンのもと、圧倒的権力を有していた君主制を、民衆の力によって打ち破ったフランス革命かもしれない。最近では「黄色いベスト運動」なども記憶に新しいが、市民革命による成功体験を持つお隣フランスは、ヨーロッパの中でも強行突破型のスタイルも厭わない抗議文化大国の一つといえよう。

そのフランスに比べると、ドイツは比較的リベラルな方法で抗議を行い、抗議文化の歴史が強い訳ではないとドイツ人の友人たちは言う。
しかし、日本に比べたらデモ の数も規模も大きいのは明らか。抗議文化が根付いたドイツ特有の理由があるかを調べてみたところ、直接関連するかはわからないが「68年運動」というキーワードが出てきた。

脱権威主義を促した西ドイツ「68年世代」の社会変革運動

ナチス時代を経て、ドイツの権威主義に終止符が打たれ、市民参加の促進や公共空間の拡大が見られるようになったといわれているのが、50年ほど前の1968年に起こった、学生を中心とする「68年世代」の社会変革運動である。もともとドイツ人はヨーロッパの中でも、歴史的に見て権威に弱い国民だとされ、ナチスの体制に国民が順応したのも、この国民性が大きく寄与していると言われていた。新しい社会運動および緑の党の出発点として位置づけられる「68年運動」は、ドイツ社会の「民主化」と「リベラル化」に寄与した側面があるという。

1968年といえば、ベトナム反戦運動などと結びついて世界各地で学生が社会改革を主張し権力と衝突した年である。フランスで五月革命、アメリカではキング牧師が暗殺されるなど、ベトナム戦争下のアメリカは混迷を極めていた。チェコスロヴァキアで起こった社会主義下における民主主義運動が軍事介入によって潰されたプラハの春。中国では文化大革命が進行し、紅衛兵が「造反有理」を掲げて暴走、日本で東大安田講堂占拠が起きたのもこの年である。

特にベトナム反戦運動の流れが世界中に伝播、権威主義における反体制を掲げて怒れる若者たちの抗議活動は「新左翼」運動ともいわれた。ビートルズやローリングストーンズの音楽が流行し、ジョーン=バエズやピーター、ポール&マリーなどの反戦歌が歌われた。1968年のウッドストックのロックコンサートはその最大のイベントだった。そこから若者にはヒッピーと言われる自由なライフスタイルを実践するものが急増し、カウンター・カルチャーが生まれていく。

ドイツは、第二次世界戦後、1948年に旧ソ連の占領の東ドイツ、米国、英国、フランスの占領地域である西ドイツに分割された。
西ドイツでは、63年末にフランクフルトで始まったアウシュヴィッツ裁判を契機に、戦後世代が学生となり、自分たちの両親がナチスとどうかかわってきたのか、正面から問いただした。彼らの父親世代の大多数は、ナチス体制の中で積極的な共鳴者として道を歩み、戦後、過去をあまり語ろうとはしなかったからだ。
ナチスにどの程度協力したのか、民族虐殺を知っていたのか。若者たちは、父親世代が権威主義そのものである家父長制度のもとで育ったナチスの共鳴者であり、今も過去の認識から目をそらすファシストであると批判した。

さらにベトナム反戦運動が世界中で加熱したことも重なり、若者たちの中では、生活の中にある権威的な構造や人間関係に敏感になり、徹底的に批判し、排除する動きが生まれた。この動きを巻き起こしたのがドイツ全土の大学キャンパスに吹き荒れた反権力闘争で、この運動に参加した人々のことをドイツでは「68年世代」と呼ぶ。
彼らは、議会外反体制運動(APO)を盛り上げ、政権や大学の体質を批判。一部過激な武装闘争を行う赤軍派を生むきっかけにもなったが、一方で68年世代の主張の中心は、非ナチ化、大学を含む教育の民主化、 反資本主義、反原発、環境保護、性解放、女性の社会進出などに関する「新しい社会運動」へと繋がり、ドイツの精神性を変える多くの変革に繋がっていったとされる。

政治、司法、教育。社会システムの内部改革を推し進めた68年世代

68年運動の翌年、69年には連邦政府の政権交代が起こる。
戦後一貫して与党だったCDU(キリスト教民主同盟)/CSU(キリスト教社会同盟)政権がSPD(社会民主党)/FDP(自由民主党)政権に代わり、ヴィリー・ブラントが1969年に首相に就任。
ブラントは、労働者階級出身の上に私生児でもあり、苦労しながら育った。ジャーナリストのバックグラウンドを持つ彼はナチス・ドイツにも潜入し、大胆な非合法活動を行った。このような経歴を持つ政治家がドイツの首相になったことは、ドイツの過去への反省と社会変革にとって決定的な意味を持つ。
ブラントはナチスが行ってきた人権侵害、犯した罪への強い反省を念頭に起き、人権政治、環境政策に力を入れた。
1970年代には世界的にもエコロジー運動が高まっていたのもあり、世論調査機関Infasの調査によると、環境保護という用語を知っている市民の数が1970年9月時点で41%だったのに対し、1971年11月には92%にまで上昇。
ブラント政権の動きは、68年運動が掲げたトピックを国としてきちんと社会に実装するというプロセスを市民に示した好例なのかもしれない。

出典 : https://www.willy-brandt-biography.com/politics/domestic-policy/

さらに、68年世代は、教育、司法、マスコミ、組合、行政機関などに就職して、辛抱強く内側から時間をかけて改革を進めてきたといわれている。
例えば、権威主義の象徴であった大学の民主化もこの世代の貢献が強く影響した。 60年代まで学校の歴史の授業は第一次世界大戦で終わっていた歴史が、70年代になると68年世代の教師たちによってナチス時代の歴史も教わるようになる。

出典 : https://www.willy-brandt-biography.com/politics/domestic-policy/

世界的に有名なドイツの現代美術家で、「社会彫刻」の提唱者ヨーゼフ・ボイスもこの時代に教育改革、エコロジー運動に取り組んだ一人だ。
ボイスは温度で変化するという彫刻の持つ理論を人の精神やその集合体である社会に当てはめ、「社会彫刻」の概念をこう説いた。
「冷え切った人の精神や社会の諸制度は硬直化するが、温めることによって健全な体質に変えることができる。教育する(温める)ことによって人が本来持っている創造力を引き出すことができ、より健全にすることができる。個々人が健全になり、同時に政治や経済も改革する(温める)ことで社会も変わっていく。」
人間ひとりひとりが参与することでより良い社会を作る、社会は芸術作品とみなすこともできるという「拡張された芸術概念」を打ち立て、社会彫刻の新たな可能性としての草の根市民運動・環境保護運動を展開。同時に、先進的なワークショップ形式の教育活動を実践し、ファシリテーターとして優れた成果を残した。

エコロジーの概念を社会実装した政党「緑の党

そんなボイスも参加し、68年世代の学生運動から創立された政党「緑の党 (Die Grünen)」。この党を代表して、社会民主党との連立を組んだジョシュカ・フィッシャーはかつて警官隊に石を投げつけていたし、連立の相手であった社会民主党のゲルハルト・シュレーダー首相も政治家になる前は68世代の過激派活動家を法廷で弁護する仕事をしていたこともある。

米ソの軍拡競争により、冷戦の最前線に立つ西ドイツで核戦争への恐怖が広がったという事情、80年代に起こった工業化の酸性雨により多くの木々が枯れる「森の死」、チェルノブイリの原発事故などが起こる最中、SPD/FDP政権は原子力エネルギー政策を推し進めていた。
それに反対し、1979年にエコロジー運動、反原発・反核運動、学生運動、フェミニズム運動を背景に「緑の党」は設立された。最大の功績は、緑の党が、市民主導のエコロジー運動、反原発・反核運動の推進を図り、政策や法に反映させ、環境に優しい社会システムの構築に取り組んだ点だろう。

出典 : 緑の党 WEBサイト | Die Grünen

エコロジー運動が盛んであった70〜80年代、原子力発電所があったもしくは建設予定地のエリアの農民や環境意識の高い若者・学生、そしてチェルノブイリ原発事故の影響で子供を育てる母親および女性などを中心に10万人から100万人単位のデモがドイツの各都市で行われたという。
75年には、現在ドイツで最大の環境系NGOのひとつ「BUND」(Bund für Umwelt und Naturschutz Deutschland=ドイツ環境・自然保護連盟)など環境系の市民団体の結成もエコロジー運動に加勢した。
こうした市民運動の結果として、社民党・緑の党連立政権ではチェルノブイリの事故を受け、原子力発電所の完全廃止に向けて電力業界との交渉を行い、関連の法律が2002年より実施されている。

このように西ドイツで起こった「68年世代」の社会変革運動が、ドイツにおける抗議文化の礎に影響を与えてきたとされている。

ナチス、冷戦という二つの大きな暗い過去は、国民にとって権威主義からの脱却、そしていかにして市民が社会を作るのかという問いを与えたのかもしれない。市民はその問いに対して行動を持って思考し続けてきた結果、それが今日のドイツの社会の基盤になっている。

次の記事では、市民運動などのカウンター・デモクラシーがドイツやヨーロッパに根付いている理由として挙げられる民主主義教育について取り上げる。

TEXT BY SAKI HIBINO

ベルリン在住のプロジェクト& PRマネージャー、ライター、コーディネーター、デザインリサーチャー。Hasso-Plattner-Institut Design Thinking修了。デザイン・IT業界を経て、LINEにてエクペリエンスデザイナーとして勤務後、2017年に渡独。現在は、企画・ディレクション、プロジェクト&PRマネージメント・執筆・コーディネーターなどとして、アート、デザイン、テクノロジーそしてソーシャルイノベーションなどの領域を横断しながら、国内外の様々なプロジェクトに携わる。愛する分野は、アート・音楽・身体表現などのカルチャー領域。アート&サイエンスを掛け合わせたカルチャープロジェクトや教育、都市デザインプロジェクトに関心あり。プロの手相観としての顔も持つ。

Published inBerlinClimate ChangeEcologyEurope対抗文化の新都より