2019年9月20日、ニューヨークで開かれる国連の温暖化対策サミットを前に、若者が中心になって世界各国で気候変動に対する対策を求めるデモが行われた。163カ国で400万人以上が参加した#Climatestrike。
ベルリンでは27万人、ドイツ全体では150万人が参加したこのストライキ。そのストライキをした第一弾の記事に続き、第二弾の記事ではドイツに対抗文化が根付く理由を歴史的に紐解いた。
この記事では、市民運動などのカウンター・デモクラシーがドイツやヨーロッパに根付いている理由として挙げられる民主主義教育について取り上げてみたい。
ヨーロッパに根付く民主主義教育
ドイツでは、1970年代エコロジー運動の一因でもあったヴィリー・ブラント政権時代以降、小学校から基本科目として環境教育が取り入れられている。
子供のうちから生活に密着した環境や社会システムを自分で考えさせる授業が学習指導要領に定められ、BUNDやグリーンピース、ドイツ自然保護連盟など100にもおよぶ環境団体が市民や子供に学外授業を行ったり、情報提供を行い、自然意識を呼びかける活動を行っている。
環境教育の他に、ヨーロッパの教育は、単なる多数決ではなく、自分で物事を考え、違う意見をもつ人ときちんと対話を行い、みんなで決めたことに対しては責任をもってコミットしていこうという「民主主義教育(シティズンシップ教育)」を取り入れている。
出典 : https://deutsches-schulportal.de/stimmen/demokratiebildung-gefordert-aber-auch-gefoerdert/
この民主主義教育は、ひとりひとりの子どもが自分の独立の自由意思に照らして、
- 民主的意思決定の仕方
- コンフリクト(対立) の解消法
- 社会に対する責任意識
- 多様性の受容
- 民主制度の基礎知識を学び、同時に、 自尊心や自制心を促す「内省能力」と共感や他者の立場を理解する「社会的能力」を能動的・ 経験的に習得させる
などを社会において実践できる市民に成長することを目的に作られたプログラム。
授業や学校の垣根を超えた社会や文化全体を学習の対象とし、教科書の暗記などの知識面での学習に重視をおくというよりも、あそびと学習、そして対話や議論などの手法を掛け合わせたカリキュラムをとおし、その先にある能力および行動を志向している。
小中高全体のカリキュラムを視野に入れ、「生活形態としての民主主義」から「社会形態としての民主主義」、さらには「統治形態としての 民主主義」へと段階を踏んで積み上げていく学習の系統性や段階性が考慮されている。
ドイツにみる政治教育
ドイツでは、教師が、生徒自身の意見を尊重し、彼らの意見表明の自由の保証人として、対立的な意見交換を促進する「ボイテルスバッハ・ コンセンサス」と呼ばれる政治主義教育の原則が確立されており、この原則は各州の学習指導要領等にも取り入れられている。
「対立性の規則(Kontroversitätsgebot)によってはじめて政治的意見や関心の豊富さを具体的に示すことが可能となる」という考えから、対立する立場をフェアに扱い、特定の党派性に立たず、それぞれの立場について正確な情報を伝え、折り合いをどのようにつけていくかが重視されている。
出典 : https://unagb.org/model-un/
学校外の課外活動としては、社会問題に対するディベートクラブやボランティア活動、ワークショップ、模擬選挙などが例として挙げられる。こうした活動は地域だけではなく、EU間での連携も盛んに行われている。
例えば、毎年、世界中の高校生がオランダのハーグ市に集まる「National Model United Nations(モデル国連)」という取り組み。
紛争、人権問題、核廃棄物処理・ 核兵器問題、環境保全など、実際に国連で議題にされるテーマをもとに、高校生が各国の国連代表者になって会議に参加する。
ドイツをはじめ、ヨーロッパの中等学校では、Model UNに向けて自校のディベートクラブで議論・討論のスキルを磨くという。
自分の日常生活とは遠い位置にある、国政レベルの議論にまで着実に行き着くためには、まずは学級レベルでの身近な民主主義的な事象を基盤として、そこから学校レベルへ、次に地域レベルへと積み上げていき、さらに国家レベルへと少しずつ積み上げていかねばならない。
これにより初めて、子どもたちは自らの経験と結びつけて公共的な事柄への関心を持つことができるようになる。
これらの機会を経て、民主主義のあり方やスキルを身に付けた人々が、市民社会への強い参加意識と政治への高い関心をもって、選挙へ行く。
そして、社会にかかわっていくことで、地域や自国の未来を決めていくのだ。
資本主義・分断する社会における教育の役割
こうした民主主義教育が生み出された背景には、全ヨーロッパに共通する社会事情があげられる。
それは、 先進産業社会に広範に見られる「エゴイズムや無関心の蔓延」と、移民や難民など外国人の流入による異文化共存社会での「倫理観・価値観の多様化」である。
資本主義的な産業社会における教育は、産業化社会のための道具として利用されてきた。
親たちは、学校を、自分の子どもがやがて高収入を保障される職業に就くための手段と考え、国は、教育を技術革新の先端となる戦力と工場の歯車・企業戦士となって働く労働者の育成の手段と考え、プログラムが組まれていた。
この傾向は、産業および経済競争のグローバル化に伴ってますます強まり、その結果として学校は、急速に人間社会や環境に対する責任意識が薄い、競争指向で共生意識の低い人材を生む場と化していった。
さらには、経済の発展に伴い、人手不足を補うために流入してきた非西洋社会からの外国人、特にイスラム教的倫理観を背景とした移民の流入、国際紛争をめぐる難民の流入により、西洋的市民意識とは異なる倫理観・価値観を持つ人々の割合が急激に増加。
異なる倫理観・価値観を理解し、受け入れ合えないことが社会問題として顕在化しはじめた。
こうした社会背景から、教育が本来の意味を問いただす転換期として、民主主義教育がヨーロッパで浸透しはじめたという。
日本が抱える教育課題
一方、日本の近代教育を見てみると、戦後、高度産業技術と経済発展を目指し、国力としての技術革新への強い傾倒はあったものの、自律的市民の育成という観点は弱い。
むしろ、市民を自律的にさせないことで、競争原理による経済発展至上型の学校教育を発展させてきた傾向にあったとも感じる。
自分が小中高の時は、学習は大学受験のための知識を身につけるものとして暗記重視の学習を行っていた記憶があるし、学歴主義・競争社会の中での成功は、いい大学に入って、いい就職先につくという考えがスタンダードであった。
「人間社会や環境に対する責任意識が薄い、競争指向で共生意識の低い市民社会」という言葉を聞くと、思い当たる節があって苦しくなる。
また、日本は政治的中立性の名のもとに、対立する意見を学習する機会を回避している現状があることも否めない。
回避されている意見の多様性を直視しない限り、民主主義的な問題解決を実現することはできない。
この流れは、エゴイズムや無関心が蔓延する社会、倫理観・価値観の多様化に閉鎖的な社会を助長し続けている。
昨今の日本における政治や社会問題のニュースを見ていると、まさに形式的な民主主義の歪みが露呈されている状態のように感じる。
三権分立が等しい立場で正常に行われているかも疑問に思える現代社会において、間違った方向に舵をきる国家権力に対し、異議を唱える自律的な市民の動きというのは、本当に意味がないのだろうか?
次の記事では、ヨーロッパの民主主義教育や社会システムの中で育った若者たちが中心にはじめた草の根運動が、政治・ビジネスに影響を与えはじめている点について取り上げたい。
TEXT BY SAKI HIBINO
ベルリン在住のプロジェクト& PRマネージャー、ライター、コーディネーター、デザインリサーチャー。Hasso-Plattner-Institut Design Thinking修了。デザイン・IT業界を経て、LINEにてエクペリエンスデザイナーとして勤務後、2017年に渡独。現在は、企画・ディレクション、プロジェクト&PRマネージメント・執筆・コーディネーターなどとして、アート、デザイン、テクノロジーそしてソーシャルイノベーションなどの領域を横断しながら、国内外の様々なプロジェクトに携わる。愛する分野は、アート・音楽・身体表現などのカルチャー領域。アート&サイエンスを掛け合わせたカルチャープロジェクトや教育、都市デザインプロジェクトに関心あり。プロの手相観としての顔も持つ。