“あそび”と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。
放課後の校庭や公園で走り回る子どもだろうか。あるいは、休暇に家族で行く海外旅行かもしれない。
今から80年以上前、オランダ・ハールレムで一冊の本が出版された。その本の名は『ホモ・ルーデンス(Homo Ludens)』 ― “あそぶ人”。人類をホモ・サピエンス(知性人)やホモ・エコノミクス(経済人)となぞらえることは多いが、著者であるオランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガは、あそびは文化をも先行する人間の本質であると主張した。
もしそうなのだとしたら、実利主義的ともいえる社会システムの中で遊戯の要素が排除され、わざわざ“あそび方”を扱わなければならないような現代社会では、人間として大切なことがこぼれ落ちていってしまっているのかもしれない。
本記事では、2019年12月に開催された『Ecological Memes Forum 2019 〜“あいだ”の回復〜』にて行われた体験型セッション「“あいだ”とあそびの関係性を探るワークショップ」の様子を写真とともにレポートする。
本セッションを先導したのは、それぞれ独自の角度から“あそび”を探究・実践されている4人のナビゲーターだ。
1人目は、本セッションの企み人でもある岡野春樹さん。岐阜県郡上市に移り住み、長良川源流域の暮らしと都市部の仕事を和えることで、新しい仕事をつくる“あいだ”のプロデューサー。その岡野さんが「川の師匠」と呼ぶのが、2人目のナビゲーター由留木正之さん。自然体験事業「山と川の学校」の設立に携わるなどアウトドアに精通し、森と川の案内人として自然空間との親しみ方を教えてくれるプロフェッショナルで、“現代の河童”という異名を持つ。
3人目は、井上博斗さん。郡上八幡音楽祭の主催や土地の古老から聞き覚えたわらべ唄の伝承など、時空を行き来しながらうたと語りで土地と人をつなげる“妖怪”として親しまれる。そして4人目は、これからの時代のあそびと芸術と感受性をテーマに多数のプロジェクトに携わり、レーベル「遊と暇」代表を務める“あそびの探求人” 渡辺龍彦さんである。
それでは、この奇想天外な4人のナビゲーターとともに、“あいだ”と“あそび”の関係性を探っていこう。
頭で理解するのではなく、あそびの感覚に委ねる
「寝たくなったら後ろで寝ていても良い」
「つまらないときには野次を飛ばすなど好きに介入しても良い」
岡野さんのそんなインストラクションから始まったこのセッション。
最初にアイスブレイクとして行われたのは、6人程度で1チームになり、1から順に数字を数え合うというあそび。「同じ人が連続で数えなければ誰が数えても良い」「リズムは一定で間を空けてはいけない」「2人以上が同時に数えてはいけない」とルールは非常にシンプルなのだが、やってみるとどうやら奥が深そうだ。
遊びがひと段落したところで、井上さんがこんな言葉をかけてくださった。
「これをやったからなんなのかというのは全くない。うまくいっていることの分析はいろいろできるが、その理由は定かではなく、正直うまくいったとしか言えないようなところもある。だが、実はその“なんだかうまくいってしまう”感覚が遊びにおいて大切なのだと思っている」
ハッとする言葉だった。いつの間にか、このあそびにはどの様な目的があるのか、何を得られるのか頭で考え、逆算しようとしている自分たちに気付かせてくれたからだ。
どうやら、本セッションの本質は「理解しよう」とすることではなく、夢中であそびながら身体で「感じとっていく」ことにありそうだ。
“適度な危険”をはらんだ、ぎりぎりのあそび体験
その後の対話の時間では、あそびとはなにかということを研究し続けているあそびの探究人渡辺さんが公園の事例を挙げ、危険であることの大切さが語られた。
近年、東京の公園ではボールあそびが禁止になっていたり、「ふざけてあそぶ」のはやめましょうという看板が掲げられたりしている。あそぶ場なのにふざけてはいけないというのは矛盾した話にも聞こえるが、子どもにケガをさせてはいけない中で、あそびの環境にどれだけ危険を残すかという難しさがその背景にはある。
しかし、「ボールあそびが危ないから禁止する」「木登りが危ないから木を切る」といったことが続くと、あそび場として魅力のない公園になるのも事実。いかに子どもが楽しくあそべる環境で、“適度な危険”を残しておけるのかがポイントになる。
危険にはハザードとリスクの2種類があることを認識しておくことが大切だと渡辺さんはいう。
ハザードはメンテナンスができていなく、危ない状態のことだ。例えば、公園のフェンスが破れた状態で、フェンスの先が尖っている場合、無条件にケガの恐れがある。
一方でリスクとは、ある年齢や能力だと危ないかもしれないが、一定の年齢や能力以上であれば、むしろ楽しめるという危険性だ。木登りを例に挙げると、転落すれば重傷を負うリスクはもちろんあるが、身長や空間認知能力の成長に伴って上達するため、徐々に経験を積んでいけば登っても転落することはほとんどなくなる。
そうしたリスクとハザードを分けた上で“安全かつ危険な空間”をつくることがあそびには重要になる。
年上の子の危険察知能力が、小さい子の挑戦環境をつくる
自然の中に身を置いていると、心の安らぎと同時に、畏怖や危険性に震え、生命力が高まっていくようなこともまた本質なのだと感じたりする。まさに「安全かつ危険」というアンビバレントなぎりぎりの体験だ。
渡辺さんと由留木さんは自然体験の授業を行う郡上の長良川でそのヒントを得たという。
「郡上の川であそぶ子どもたちにはなぜ事故が起きないのか」
その理由を探るべく、子供たちを丸一日観察する中で見えてきたのは、お兄さん・お姉さんのような存在の子が、自身があそびながらも小さい子を視野の端に入れていて、「ここからなら川に飛び込める」「どこまでやると危ない」といった判断をこれまでの自分の体験を踏まえて行っているということだ。水の温度や流れ、深さ、またその時の自分の体調など、多様な情報を処理する一連の動作が経験を通して身についているからこそ、小さい子のマネジメントもできるのだろう。
重要なことは、こうした自己の身体能力の把握や空間に潜む危険の察知能力は、やってみないと身につかないということだ。頭で理解したり、言葉で伝えるのではなく、身体感覚でしか会得できないこうした能力を、マネジメントする側の人間が経験の中で学んできたが問われているわけだ。
あそびから学ぶ、組織の創造的な風土づくり
年上の子どもが自身の経験を踏まえ、小さい子が挑戦できる環境をつくるというのは、組織マネジメントにも通ずるところがあると岡野さんは語る。
上司から「自由に新規事業をやっていいよ」と言われたところで、既存と同様の枠組みで成果を求められたり、失敗が許されない空気感が漂う環境では、人は安心してリスクを取り、挑戦することはできない。
これは知識としての理解や仕組みもさることながら、その上司自身にリスクをとって挑戦してきた生身の体験があるかどうかが、その土壌をつくる最も大きなファクターでもある。
社員がリスクを取れる環境を作ることで、一人ひとりが仕事に夢中になり、没入し、楽しみながら手探りで水深を見極め、体感していく。そしてその面白みを味わうことで挑戦がさらに加速していく。
筆者の肌感としても、組織でのイノベーションを加速させていくために、中間管理職自らが新規事業創造にチャレンジする機会は増えてきている。現代社会はきっと、あそびを取り戻していく必要があるのかもしれない。
自己と他者の境界が溶け合う“あいだ”の感覚
次のあそびでは、まず2人1組でペアを作り、人差し指をあわせ、能動側と受動側を決めた。
能動側は指に力をいれ相手を押す。その際にどの方向に押しても構わないし、足を使って動いても構わない。受動側は押されるがままに、力の入れられている方向に流されるように動く。
参加者は、指を離さないよう「あー!」とか「そっちかー!」などと奇声をあげながら、楽しそうにペアで会場中を動き回る。
指でコミュニケーションをとっていくこのあそび。
体験した後のダイアローグでは、参加者からとても興味深い気付きが共有された。
「どっちがどっちなんだろうって途中でわからなくなった」
「最初、指と指を合わせるために指ばかりに意識が集中してしまいぎこちなかったけど、視野を広げたら空間を大きく捉えられて、二人で舞っているような感じがした」
このあそびでは、自分の意思で押していたつもりが、気付いたら引くほうに合わせていたり、いつの間にか役割も忘れ、二人で一つのシステムとして大きな動きを描いていたり、「能動と受動」という枠を超えた大きな流れが自ず(おのず)と生まれていってしまっていたというのだ。
そして、その流れを楽しむなかで、ふと自己と他者の境界が溶け合っていることに気付く。まさに、今回のフォーラムテーマでもある「あいだ」の感覚だ。
普段、私たちはどうしたら二項対立を乗り越えていけるだろうかなどと頭でこねくり回して考えてしまいやすいが、身体や遊びの流れに委ねることで、その“あいだ”の感覚にすっと入っていくことができる。
楽しさや面白さに夢中になっているうちに、自らの認識の境界や外の世界との相互作用に身体感覚として気付き、いつの間にか次の展開が起こっていってしまう。この予測や逆算から解き放たれた出会いこそが、あそびが秘める学びの可能性なのかもしれない。
共同体のレジリエンスを保つ「遊び的身体感覚」の伝承
フォーラムの後、岡野さんたちの住む郡上を訪ねる機会をいただいたのだが、その時にこんな話を伺った。
とある事故をきっかけに、郡上の学校で川遊びが禁止されたことがあったそうなのだが、数年経って解禁されたところ、川の遊び方を知っている子どもがいなくなってしまった。遊び方を知っているお兄さん・お姉さん的な存在がいないために、誰も川で遊ぶことができず、大人が遊び方を教えていったのだそうだ。
共同体において、この遊びに伴う身体体験というのは、脈々と受け継がれてきていたのだと思う。もちろん大人からというのもあるだろうが、こどもたちのあいだでも自然と起こっていたのだろう。口承ならぬ、遊承(あそび的身体感覚の伝承)とでも言えるかもしれない。
芸能文化、例えば能などが、言葉の記述ではなく口承でしか伝わっていないのは、それが身体的にしか会得しえないものだからだ。能楽師の安田登さんは、特に日本の芸能文化にはそうした性質が強いのではないかと著書で書かれている。
西洋音楽のメロディは絶対音感、つまり周波数の違いで客観的に楽譜に記述ができるのに対し、日本の「節」というのは、「上・中・下」と簡単な記号しか存在しない。しかも、同じ「中」といっても相対的なものでしかなく、その都度音が異なるのだそうだ。そこで、弟子は師匠から腹からの音の出し方を身体で真似ぶほかないという。
年上の子から年下の子へと脈々と受け継がれているような「遊び的身体感覚」もおそらくそうした類のものだ。そしてそれは、共同体の中で一度途切れてしまうと修復が難しい。
現代社会では、様々なことに目的や説明責任を求められ、わかりやすいものばかりが重視されてしまいやすいが、実はそうした「みえない」「よくわからない」ものや関係性がシステムの弾力性(レジリエンス)を保っていたりする。
「遊び」には、そうした「みえないもの」への知覚のヒントが隠されているのではないだろうか。
ナンセンスを生きるということ
最後にもう一つ。今回のセッションの中で、とても印象に残っている話がある。
とある小学校で、先生が子どもたちのためにと遊びの時間を設けてゲームをしていた。そして、終わった後、一人の生徒から「先生、もう遊んで良い?」と言われたそうだ。
子どもは誰だって遊びの名人だ。だが、大人になるにつれて多くの人がその感覚を忘れていってしまう。
遊ぶように働き、遊ぶように暮らす。両者の区別はもともと要らなかったのかもしれないが、わざわざ「創造性を取り戻そう」「遊ぼう」と言わなければ遊べなくなってしまっているのもまた現代社会のリアリティだ。
鶴見俊輔さんは「文化とはなんだろうか」という対談集の中で、存在は究極のところナンセンスにぶつかるわけだから、子どもたちに意味(センス)を前提に教えるのではなく、この世はナンセンスだという全体性の中に、自己にとってのセンスを見出すという生き方を伝える必要があるのではないかと言っている。
ただ楽しい。ただ面白い。それでだけで良かったのかもしれない。そこに合理性や意味を見出そうと必死になり、いつの間にか人の世界は窮屈なものになってきてしまった。
そして、近代産業社会の様々な限界がもうぎりぎりのところまできてしまっているのが今の時代だ。COVID-19を地球の免疫反応として捉える視点もある。来年の世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)では「グレート・リセット」がテーマになると発表された。
人間活動の抜本的な視点転換が必要となっている今、ホモ・サピエンス(知性人)でも、ホモ・エコノミクス(経済人)でもなく、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)として生きることは大切な何かに気がつかせてくれるのかもしれない。
TEXT BY YUDAI SHIRAHAMA
EDIT BY SHUHEI TASHIRO, YASUHIRO KOBAYASHI
本セッションのグラフィック・レコーディング
【Ecological Memes Forum 2019に関連するレポート】
・東洋的“あいだ”の感覚から見える世界
・【前編】“あいだ”の経営と内臓感覚(京都市ソーシャルイノベーション研究所 大室氏)
・【後編】“あいだ”の経営と内臓感覚(環境神経学研究所 藤本氏)
・社会と経済の“あいだ”を取り戻す?知識生態学・紺野教授に学ぶ、主客未分のエコシステムのデザインとは?【講演編】
・五感で感じる森との対話(株式会社森へ 菊野氏・鈴木氏)
・自然と人の“あいだ”を取り戻す協生農法(一般社団法人シネコカルチャー/福田氏)